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サザン鉄道(サザンてつどう、)は、1923年から1947年まで存在していたイギリスの鉄道会社である。1921年鉄道法で成立した4大鉄道会社の中で、営業範囲の点でもっとも小さな会社であった。 == 概要 == サザン鉄道の路線網はイングランド南部に限られており、ロンドン以北には路線はなかった。ロンドンの南から南東側にかけては事実上の独占となっており、一方で南西方向へはグレート・ウェスタン鉄道と競合していた。 4大グループ化で成立した他の鉄道会社(ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道、グレート・ウェスタン鉄道)とは異なり、サザン鉄道は旅客輸送が大半の会社であった。運行範囲が狭いにも関わらず、サザン鉄道は全イギリスの旅客輸送量の4分の1以上を運んでいた。これは、ロンドン南部は地質的に地下鉄が適しておらず、ロンドン周辺の需要の多い通勤輸送路線を多く保有し、国内で最も人口密度が高い地域で運行していたからである。 サザン鉄道は、公衆への宣伝で特に成功した会社であった。1924年にあまり評判のよくない宣伝をしてしまった後、ジョン・エリオット(John Elliot)が宣伝担当に任命された。第二次世界大戦前まで、サザン鉄道が高い評価を受けることができたのは、彼の活動によるものであった。宣伝キャンペーンは、鉄道の近代化計画の広報と、南部・南東部への休暇旅行の促進活動の組み合わせでできていた。"Sunny South Sam"という言葉が大衆にとって、サザン鉄道のサービスと強く結びついていた。また「ケントで満足な生活を(live in Kent and be content)」というキャンペーンにより、ロンドンから外部への移転を促進して、サザン鉄道の通勤輸送の需要を増加させた。 第二次世界大戦中は、サザン鉄道の営業範囲は前線となった。戦争開始前は、輸送量の75%が旅客で、貨物は25%に過ぎなかった。戦争中も、旅客輸送量はおおむね戦前と変わらなかったが、それは全輸送量の40%に過ぎなくなり、貨物輸送が戦前の6倍に増加して全体の60%を占めるようになった。絶望的な貨物輸送用機関車の不足は、主任技師(CME: Chied Mechanical Engineer)のオリバー・ブレイド(Oliver Bulleid)によって救われた。彼は当時イギリスで運行されていた同種の機関車の中でもっとも強力な、車軸配置0-6-0のすばらしいクラスQ1を設計した。40両のクラスQ1によりサザン鉄道の貨物輸送能力は大幅に改善され、かつての通勤輸送路線を通じて運ばれた軍需物資や兵士の数は息をのむような偉業であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サザン鉄道 (イギリス)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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